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イスラエル〜ユダヤ人問題 

<ユダヤ人観>

キリスト教文化圏ではユダヤ教徒(ユダヤ人)は宗教的に少数派であり、無国籍の放浪者として差別されつづけていた。神に選ばれた民であるという選民思想や、ユダヤ教にのっとった生活習慣を守り続けていることが、他と同化しようとしない頑固な民族だと思われたのかもしれない。

故国を失ってからのユダヤ人には、戦争の仲介者・武器商人・高利貸しというイメージが作られてしまった。他にも、ユダヤ人は救世主であるキリストを殺し、その罪によって永遠に放浪させられた者という考え方(キリストがされた『磔刑』はローマ式である)や、教会から聖体(キリストの身体とされているパン)を盗み出して冒涜しているとか、キリスト教との幼児をさらい、ユダヤ教の祭式で殺害しているという、根拠のない噂が流布されていた。

<放浪の民>

紀元前6世紀、ペルシャ王によってバビロン補囚から解放されたユダヤ人たちの一部は、故国パレスチナに戻らずにバビロンに留まった。

紀元70年、「ユダヤ戦争」のおりにローマ軍によってエルサレムの神殿は破壊され、ユダヤ人は故国を失う。多くのユダヤ人が捕虜となり、ローマ帝国全土に奴隷として売られた。

2世紀、ローマ軍に対する最後の抵抗と言われる「バルコホバ戦争」に敗退し、ユダヤ人がエルサレムに住むことは禁止され、ユダヤ教の実践は死罪とされた。

4世紀、ユダヤ人は兵士・職工・通商人・農民としてローマ帝国の各地に住みついていた。
4世紀後半、ローマ帝国の国教がキリスト教となり、ユダヤ人への規制や差別が法律で定められた。

<東方貿易の中心となる>

8世紀、ヨーロッパではイスラム教徒を追い出すべく各地で戦闘が起こり、その際にユダヤ人が多量の武器を援助した。カール大帝はユダヤ人に自由な通商とユダヤ人団体(ゲマインデ)内での民事裁判権を許可した。戦闘によってキリスト教国とイスラム教国との貿易が困難になり、ユダヤ人が東方貿易(イスラム教国との貿易)の中心となって活躍した。

<ユダヤ人迫害の始まり>

11世紀、第一回十字軍遠征からヨーロッパでユダヤ人迫害が始まる。もともと十字軍遠征は、聖地奪回を目的とした宗教的情熱から発生したものである。そして、ユダヤ人はキリストを殺し、その呪いによって永遠に放浪させられているという考えがあったため、ユダヤ人も敵ということになった。

しかも、安定した居住権や身分の保証のないユダヤ人は財産を金銀や貨幣に替えていた。十字軍は回り道をしてでもユダヤ人居住区を襲い、彼らを殺戮し、資金や物資を略奪して行った。即刻キリスト教に改宗しないユダヤ人は女子供の見境無く殺され、多くのユダヤ人が自分の家に火を放って財産もろとも自殺したという。

以後、数度の十字軍遠征のたびにユダヤ人は迫害を受け、社会不安、天災、凶作、ペストの流行などが発生するたびに人々は不満や不安からユダヤ人を迫害し続けた。

13世紀、ドイツにおいて、キリスト教徒とユダヤ人の隔離、ユダヤ人の公職追放、ユダヤ人の土地所有制限、キリスト教徒が利息を取ってキリスト教徒に金を貸すことが禁止された。職を失ったユダヤ人は、生きるためにキリスト教徒が禁止された金貸し業を選ばざるを得なくなった。

<強制移住とゲットー建設>

15世紀後半、ドイツではユダヤ人を一定の地区(ゲットー)に強制移住させ始めた。フランクフルトでは市の城壁の外に本格的なゲットーが建設され、南北にのびる狭い通りを挟んで4〜6階建ての建物が並び、日中でもほとんど日が当たらない状態だった。市内側の建物の上の階の窓は、市内のキリスト教徒の生活が見えないように開閉を禁止された。

16世紀、ドイツのゲットーでユダヤ人の人口が急増したため、子供の数や年間の結婚許可数を制限され、外部のユダヤ人の移住も殆ど禁止された。ゲットーには南北と市内への門が設けられていて、夜間や日曜日、キリスト教徒の祭日などは市内への出入りが禁止されていた。また、ゲットーからの外出時はユダヤ人とはっきりわかる服装が義務付けられ、歩道を歩くことも公共の場所を利用することも禁止されていた。

ゲットーに閉じ込められた形のユダヤ人たちだったが、彼らには神に選ばれた民族であるという選民思想があり、ラビ(ユダヤ教の祭司)の元で厳しい規律を守り清潔を保って暮らした。

<宮廷ユダヤ人と乞食ユダヤ人>

18世紀、ユダヤ人の中に王からキリスト教徒と変わらない権限を与えられた「宮廷ユダヤ人」が生れた。極少数の彼らは大金持ちであり、手持ちの金銀による貨幣の鋳造を任されていた者もいた。しかし、多くのユダヤ人は財産を子供に残す権利もなく、諸々のユダヤ人税を課せられ、他の地域に移住するときは巨額の転出税を支払わされた。また、下女や召使として働いている者の居住権は雇用期間のみで、結婚は許されていなかった。物乞いをしながら各地を放浪するユダヤ人もいて、徒党を組んで盗みを働く者もあったために、ユダヤ人のイメージはいっそう悪くなってしまった。

<ユダヤ人の解放>

18世紀後半、独立を手にしたアメリカで、ユダヤ人にも平等な市民権が与えられた。
18世紀末、フランス革命が起き、フランス国民会議はユダヤ人に対して市民権と平等な権利を与えることを採択した。ナポレオンはフランス革命軍を率いてドイツに侵攻し、ゲットーからユダヤ人を解放した。

19世紀初頭、ナポレオンはドイツにウェストファーレン王国を樹立し、弟ジェロームを王とした。ジェロームはユダヤ人を平等な市民とし、ユダヤ人税を廃止し、公職につくことも許可した。実践にはなかなか到らなかったが・・・・。フランクフルトでは、ダールベルク公が巨額の金と引き換えにユダヤ人に市民権を与えた。

1813年、ナポレオンが失脚し、ウィーン会議の席上ではユダヤ人の市民権についても話し合われた。ユダヤ人たちは各国の代表に多額の金品を贈り、やっと手に入れた市民権を保持できるように説得したが、結局は各国の自由な決定に任せるということになった。ドイツでは再びユダヤ人の市民権・居住権は剥奪され、公職からの解雇や殆どの職業の制限が行なわれた。以後、数百万のドイツユダヤ人がアメリカに移住した。

詩人ゲーテを含む少数の若いユダヤ人にはドイツ社会への同化を望む者もいたが、結局は受け入れられず、ユダヤ人からは裏切り者とされ、ドイツ国外に移住するしかなかった。

<産業革命とユダヤ人>

1850年以降、ドイツにおけるユダヤ人たちの活躍は目覚しかった。豊富な資金力を生かして工業化の波に乗り、新しい産業への投資を行なっていった。それは、金融、鉄工、繊維、鉄道、海運、陶器、電気など、あらゆる分野にわたっていた。

19世紀後半、ドイツのユダヤ人に完全な市民権が与えられた。その頃のユダヤ人の平均的な資産はドイツ人(キリスト教徒)の4〜7倍で、それに対する妬みや怒りが芽生え始めていた。

<東方ユダヤ人とユダヤ人共産主義者>

1880年、東ヨーローッパでユダヤ人迫害が起き、多数の東方ユダヤ人がドイツに流入。

1905年、ロシア革命に失敗したロシアやポーランドのユダヤ人共産主義者がドイツに流入。

1908年、アドルフ・ヒトラー、ウィーンに居をかまえる。「わが闘争」によると、この頃のヒトラーはユダヤ人に対して同情的だったらしい。

1910年、「わが闘争」によると、ヒトラーはドイツ民族主義と反ユダヤ主義に傾倒していった。

1914年、第一次世界大戦が勃発し、多くのドイツユダヤ人が参戦した。彼らは戦場で古来からの伝統と信仰を守り続ける東方ユダヤ人と出会い、かなりの感化を受けた。パレスチナへの帰還を目指すシオニスト達とも出会った。

1915年、アインシュタイン(バイエルン生まれのユダヤ人)が相対性理論を発表したとき、
「もし私の理論が正しいと証明されたら、ドイツ人は私をドイツ人と言い、フランス人はユダヤ人と言うだろう。しかし、もし私の理論が間違っていたなら、ドイツ人は私をユダヤ人と言い、フランス人はドイツ人と言うだろう。」と、語ったという。・・・・・当時、ドイツとフランスの関係は最悪だった。

1918年、敗戦の色が濃くなる中、凶作によってドイツの食糧事情は最悪となり、各地でストライキや反乱が起きた。第一次世界大戦はドイツを含む同盟国側の敗戦に終わり、ドイツは共和制となる。ベルサイユ条約により、ドイツには巨額の賠償金(1320億マルク)と国土、ドイツ国民の分断が決定された。

ドイツ国内ではいくつかの右翼団体が生れ、戦後の国民感情を利用して急成長していった。食糧事情・衛生事情が悪化する中、戦時中に労働力として連れて来られて戦後もドイツにとどまった多くの東方ユダヤ人や、ロシアや東ヨーロッパからの難民(ユダヤ人を含む)の存在が反ユダヤ的な宣伝に利用され、ユダヤ人共産主義者がストライキや反乱を扇動したために敗戦したとも吹聴された。

<反ユダヤ主義の台頭>

1919年、第一次大戦後にワイマールで第一回共和制国民議会が開かれ、ベルサイユ条約の批准と共に、世界一民主的といわれるワイマール憲法が公布された。しかし、ユダヤ人議員プロイスが起草したワイマール憲法は、ドイツの現実とはあまりにそぐわないものだったために、反共和制派・国粋派・ファシスト(反民主的思想・全体主義)の格好の標的となってしまった。

長い間不安定な存在だったユダヤ人にとって、どこへ移住しても生活できるように、経済力と高い教養を身に付けることは非常に重要なことだった。貿易商や金融業には数学や法律、語学が必要だったし、政治や経済に精通するためには最新の情報を得ることが必要だった。ユダヤ人の多くは各国の都市部に住み、子弟には高等教育を学ばせた。その結果、ユダヤ人は政治家、医者、弁護士、科学者、大学教授、ジャーナリスト、芸術家などを輩出している。

しかし、ユダヤ人のドイツ社会への進出は、「ユダヤ人に牛耳られた政府」「ユダヤ人の経済支配」と煽る反ユダヤ主義者たちによって、ドイツ国民に危機感を与えていった。

<ナチスの台頭>

1926年、ヒトラー「わが闘争」第2巻発表。優秀なアーリア(ゲルマン)人種であるドイツ人の純血を守ること、ユダヤ人を世界中の民族に寄生する劣等種と決め付け、ドイツから排除することなどが書かれていた。

1929年、ニューヨーク株式市場の大暴落によってアメリカ資本が引揚げられ、ドイツ経済は崩壊していき、失業者が増加していった。

1933年、ヒトラー率いるナチス党は、失業者・学生・教師・医者・女性・農民・資本家など、あらゆる階層の指示を得て、ヒトラー内閣を成立させた。

ナチスは膨大な数の反ユダヤ規定を作り、ユダヤ人の締め出しを始めた。ユダヤ人の公的な職場からの追放、ユダヤ系の商店・商品・弁護士のボイコット、ユダヤ人医師の保険適用を外す(事実上の廃業)、ユダヤ人子弟の就学率の制限、ユダヤ系書物の焚書、東方ユダヤ人の国籍・市民権の剥奪、ユダヤ人の文化活動禁止等。

1934年以降、ユダヤ人の様々な権利は制限から剥奪に変わり、財産目録を提出させられた上で殆どの物品が没収されていった。

1935年、ユダヤ人規定が定められ、ユダヤ人、ユダヤ教徒、ユダヤ系とされた者は全て市民権を剥奪された。

1938年、オーストリアがドイツに併合され、オーストリア在住の殆どのユダヤ人は強制的に海外に移住させられた。フランスでドイツ人外交官ラートがユダヤ人に狙撃される。ユダヤ人の強制収容所への移送が開始される。

1939年、第二次世界大戦勃発。ドイツ軍、ポーランドへ侵攻して各地にゲットーを建設し、ユダヤ人を強制移住。

1940年、ユダヤ人の強制収容所への大量移送が始まる。フランスが降伏したことで、ユダヤ人をフランス領マダガスカル島へ移民させる計画が浮上する。この頃にはまだユダヤ人がパレスチナなどへ脱出することが可能だった。

<ナチスによるユダヤ人絶滅計画>

1941年、ユダヤ人絶滅を目的とするアウシュビッツ収容所建設。ドイツ軍、ソ連へ侵攻し、ユダヤ人を大量虐殺。ナチス支配下の国(ドイツ・オーストリア・ポーランド・チェコスロバキア・デンマーク・ノルウェー・オランダ・ベルギー・フランス)のユダヤ人に海外移住が禁止される。

1942年、ヴァンゼー会議によって組織的なユダヤ人絶滅計画が練られる。アウシュビッツ収容所で、毒ガスによって多くのユダヤ人が殺害され始める。ユダヤ系とされた者は、本人がユダヤ教徒ではなくても、子孫を残させないために不妊手術を義務付けられ、従わない場合は強制収容所に送られた。

1944年、ドイツ人を配偶者とするユダヤ人も強制収容所に送られ始める。

1945年、ソ連軍、アウシュビッツ収容所を解放。

<知っていた国々>

1941年、アメリカはユダヤ系新聞によってユダヤ人大量虐殺を知る。
1942年、イギリスのポーランド亡命政府も報告を受ける。
1943年、ローマ法王庁、ソ連も知るところとなる。

しかし、既にアメリカ・イギリス・パレスチナ・その他の諸国は、第二次世界大戦前に追放されたユダヤ人難民を受け入れていた。各国が経済問題や失業者問題を抱えていたため、更にユダヤ人を救済することは難しい状況だった。それに、強制収容所に送られることはあっても、毒ガスを使ったユダヤ人絶滅計画が実行されていたとは信じられなかったらしい。

ナチスの犠牲となった人々の数は600万人とも言われている。


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